夜の高知城ライトアップクラブ

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 (2006/6/1 18:40)
私と高知城   山崎 啓輔様
 (2006/1/21 18:31)

『あの頃・・・「私と高知城」』       田中 滋子
※写真は、全て拡大できます。


あの頃・・・「私と高知城」』       田中 滋子


瓦の間にしゃちほこ 数年前に90才の両親と共に、高知城を訪れた想い出がよみがえる。
 本当に久しぶりの高知城であった。両親と行ったのは生まれて初めてである。
 母は、土佐女子高等学校の乙女の頃、長いおさげ髪にセーラー服【その頃(昭和八年卒業)は、スカートにも白い二本線が入っていた】姿で、城内の庭園で「ここで卒業アルバムを撮影した」と72年昔を想いだしたと、なつかしく話してくれた。
 天守閣への玄関に着いた頃「疲れたから上には上がらない」と言いだした両親を無理矢理うながし、急な階段を登らせて、やっと天守閣にたどり着いた。
天守閣から見た高知の町 眼下に高知市内をはるか遠くまで見渡し乍ら、南から吹き上げて来る五月の風が、一瞬に汗を消し、肌に涼しく、そして髪に心地よく通り抜ける。その時の両親のすばらしい笑顔を想い出す。
 ちょっぴり親孝行をさせてもらったかなと思わせてくれたのは、天守閣に吹く初夏の風のおかげだったような気がする。
 そして高知城をサーチライトで照らし始めてから約17年、毎晩店に出て最初に感じる事がある。
 それは、天空の暗闇の中に白い一筋の光が、空気のきれいな夜は、透明感のある深いブルーの色になり、空気が汚れている時は、白く濁って見えてしまう。ほんの少し観光のお役に立てばと始めたライトアップだが、いつの間にか空気にも感心が出来たようにも感じられる、いつまでも高知の空が、クリスタルの様に澄んだ空気でありますように・・・・。
 そして高知のシンボルである高知城が、誰でも何処からでも眺められ、いろいろな、なつかしい時代「あの頃・・・」を、想い出させて下さいますように。
 やっぱりいいなぁ・・・・高知城・・・・。
母の卒業アルバム

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私と高知城                任 環様
※写真は、全て拡大できます。

私と高知城』               任 環様


 「ありがとう高知城
高知大学 卒業式 私は上海より四年間高知大学に留学していました。バイト先の大きいガラス窓から、何時も綺麗に高知城が見えたお陰で、高知城や高知の歴史等に付き、多くのお話を聞くことができました。高知城は四百年の歴史を持つ、日本でも大変古いお城と伺いました。第二次世界大戦で、日本のお城は大半が焼失しましたが、幸いにも高知城は戦火を逃れ、今でも昔のままの姿です。
 夜、バイト先は、サーチライトでお城を照らします。私はライトアップされた美しい光景を、よく見ていました。春になるとお城は櫻に囲まれ、夜には数多くのぼんぼりの灯りで、少女のように少し恥ずかしそうに顔を出します。又、小雨や雪の日は、サーチライトの白い灯りに反射され、大変美しい銀色の雨や雪へと変化し舞い散り、お城と一体となって、素晴らしい絵画を見ているような気持ちにさせてくれました。
 私は、今春高知を離れましたが、第二の故郷、高知での生活、高知城のことは私の心に、永遠に残っていくでしょう。

ぼけの花菜の花

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私と高知城               妻野 美緒様
私と高知城』               妻野 美緒様
※写真は、全て拡大できます。


白梅
 瀬戸大橋の向こうから来るその人は、とびきり背が高くてシャイ。
月に一度だけ逢える。
 「我儘でいいんだよ。」
 と私の躰を抱き寄せて言ったのは桂浜の夕暮れ。彼の茶色の革靴が愉快に砂を舞い上げている。いつか果てある河だということを忘れろよとでも言うように。時折、意地悪をして私の反応を楽しんだり、多くを聞こうとしなかったり、時間を然として捉えてる彼は大きくて不動。ささいな波に打ちひしがれさうな私をいつも包んでくれる。次は何処へ行こうかと、高知の名所を秘かに訪ねて、一年が経つ。次に逢うのは何日だろうか。頼りなさもまた、良きこと。
 互いの人生の流れの中で、ゆるやかに眺める季節の移ろひを、もう少し楽しんでいたいから、未だ行かないでいる「高知城」。天守閣めざして登る坂の背中は、私だけのとっておきの「お取り置き」。
 まだ見ぬ夢の為に、離れた時間をあたため合う私達の秘めた「恋」。

白梅白梅

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私と高知城               箱田 朝子様
 『私と高知城』               箱田 朝子様

※写真は、全て拡大できます。

梅の花 春が近づくと、視界に入るあちこちで、薄桃色の花がほころんでいる。現在居住する宅地の裏手にある、小山もいっせいに春の陽色を帯び、季節の移ろいを、知らせてくれる。
 私が、7歳のころだと思う。今は亡き伯父が珍しく我が家に遊びに来てくれた。内科医をしていた伯父は、陽気で人懐っこく、又、俗な一面を多く持ち合わせているということが、幼い私には、とても魅力的に思えた。この伯父の前では自分の幼稚さを無防備にすることができたからである。小躍りするような嬉しさを、両親には隠して、伯父との外出までの時間を心待ちにしていたのを、鮮明に記憶している。

ウメ標本木 この伯父に手を引かれて訪れたのが高知城である。ぎゅ。と音のする砂利道を歩いていると、行き交う人々の姿。親子連れ、恋人らしい男女。そして春の匂い。伯父の首にかかる硬そうな白髪やがっちりした大きな背中を弾むような気持ちで見つめながら、幅ひろの階段を上って行ったのを覚えている。道々、伯父と交わした会話なんて一つも記憶していないけれど、唯一、印象に残っている言葉がある。
 高知市街を見下ろしながら、大きい声で、
 「いい天気だね〜。さあ、愉しもう、愉しもう。」
 と、私に頬擦りしてきたその時の言葉。どきどきしたのを覚えている。伯父は、結婚して二十年近く経っていたけれど子供が無くて悩んでいたなんて。その後、伯父が心筋梗塞で他界した時に初めて知った。梅の花 伯父が生きていたら、きっといろいろ相談をしたり甘えていたのにと思う。
 先日、ふと空いた時間に立ち寄った高知城。砂利道。階段。木陰の小道。お城の色々な場所に、その時々の人たちとの思い出が蘇る。
 「思い出」には、映像と、音と、匂いと、そしてその頃の私がいて、記憶を手繰り寄せているうちに、予想しなかった痛みに遭遇してしまう。
 道を歩きながら、優しかった伯父の笑顔が思い出されて、少し切ない気持ちになった。

美しく優しかった祖母と共に
美しく優しかった祖母と共に

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『私と高知城』               湯山 藍一郎様
 『私と高知城』               湯山 藍一郎様

※写真は、全て拡大できます。

高知城
 私は少年の頃、水泳をやっておりまして、冬のトレーニングに、毎朝、堺町の家から追手門、梅の段、天守閣と走り身体を作ってきました。お陰様で中学の日本チャンプになる事も出来、高知城には感謝しております。高知城の孤高で気高い美しさを見る度に、お思いを馳せるのは土佐の二代のお殿様。忠義公の事であります。
 時の公方家光公の所望を土佐一国を賭けてはねつけた名刀。備前長船兼光の事を思い出します。ちなみに今その名刀は、国の国宝となっていると思います。人々はその刀を「一国兼光」と言います。何時までも高知城、「一国兼光」孤高の美しさを、輝き続けて欲しいと思います。その高知城を照らし続けるマダムに乾盃。

 さくら
櫻花舞う 大高坂山 黒髪に。』(湯山様の詠まれた短歌です。)
  弥生三月末、城の櫻花がマダムの上に舞いしきる。

日大水泳部の頃日大水泳部の頃
上記写真は、日大水泳部の頃(2枚共)

  感謝 高知城!!

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『私と高知城』                栗原 治様
※写真は、全て拡大できます。

2007年 初春のおよろこび申し上げます。
穏やかな1年でありますよう、お祈り申し上げます。


高知城松松


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私と高知城』                栗原 治様

 来い来いという高知の知人に誘われ、ブラリ旅を決め、うまい酒とうまい魚を期待し、市内のホテルに宿をとり、早朝の散歩がてら、板垣退助の銅像を見に出かけました。
 高知城を目指して角を曲がると、そこにはなんと、白いセーラー服姿の乙女達が次々と登校している場面に出会い、50歳も近い「オジサン」の私は、しばらくポカンと見とれておりました。それは美しい光景でありました。
 夜になり「赤い靴」というラウンジバーに迷い込み、暗闇の中の気高い高知城を見た時、朝の乙女達の白いセーラー服と重なり合い、その夜は、なかなか眠りに落ちませんでした。
 翌日、知人にその話をしたところ、「家内の母校だよ」とのこと。
 30数年の時の隔たりをつくづくと感じました。

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ご覧下さい!この絨毯を!!(゜O゜;
今回のエッセイは、イチョウづくしの写真でお届けしています。
あまりにも、素晴らしくて言葉が見つかりませんよね。
どうぞ、写真でお楽しみください。
イチョウ並木
高知市の、ど真ん中の高知城に、大自然にも負けない、芸術的な紅葉の世界に、誘ってくれる場所があったんですよ。






楓とイチョウ楓とイチョウイチョウの落ち葉


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『私と高知城』                柴田 安規様

石段とイチョウの落ち葉
 テレビ番組制作の仕事に従事する関係で、若い時から海外に出かけるチャンスは頻繁にあったのですが、四国の高知には行ったことがありませんでした。
 私が初めて高知を訪れたのは、今から7年前の春。高知出身の妻の実家を訪ねた時でした。

石段にイチョウの落ち葉
 安芸に居る妻の姉に挨拶を済ませ、高知市内に戻った時はすでに夕刻。久しぶりに緊張したせいか、食事もそこそこに早々と床に就きました。翌朝、早く目覚めた私は、高知城までの散歩に出かけました。
当時、幕末史を勉強していた私は、高知城を訪ねるのを楽しみにしていました。武市半平太や後藤象二郎、坂本龍馬らも登城したであろう高知城への道は、歴史への階段を一歩一歩登るようで、胸がワクワクしたのを昨日のように覚えています。
 予想に違わず秀麗な姿であった高知城。夜、ライトアップされた高知城も素敵でした。近いうちに又訪れたいと思います。

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エッセイ中の写真は・・・・
『石垣が、オシャレをして、イチョウのブーケをかぶっているようですよね』



イチョウの落ち葉階段とイチョウの落ち葉フカフカのイチョウの落ち葉
フカフカの絨毯みたい!!
踏むのがもったいない気持ちです。ここは、高知城の北側にある、杉の段とイチョウ並木です。
次回も素晴らしい写真で、お届けしますね!楽しみにしてて下さい。(^o^)/


この日、撮影に参りました時には、高知城管理事務所の皆様には、大変ご親切にしていただき、色々教えていただきました。
心から御礼申し上げます。

※写真は、全て拡大することができます!

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私と高知城     株式会社ドデカゴン 代表取締役社長 柴田 恵子様
美しき乙女  土佐女子高等学校在学の頃 幼稚園から土佐女子校まで、毎日、高知城を見上げながら通学いたしました私にとりまして、高知城は、子供の頃からの遊び場でもありました。
 私がまだ幼稚園だった頃、お城の南側に動物園があり、インド象の「南海子さん」と名付けられ、大きな耳と長い鼻に驚かされたのも、昨日のように思い出されます。
 すべり山の大きな楠木の下で、柔らかい夏草の上をゴロゴロと「転がり遊び」をした事や、土佐女子校に通学するようになってからは、放課後セーラー服のまま同級生と、若葉の香る銀杏の段を、たわい無い話に笑い、ふざけあったりなど等。
 季節が変わり色づく銀杏の段は、多感な乙女心を魅了し、ひと時、ロマンティックな気分に浸ったものでした。
 又、美大志望だった私は、季節の花々や風景のスケッチに出かけたり、と、思い出は数知れずあります。
 運良く志望校に入学が決まり高知城の桜に見送られて上京し、そのまま東京に居着いてしまいました。
 十数年前に帰高した折、思いもかけず暗闇の中に浮き立つ高知城に出会った時の感動は、忘れることが出来ません。今は亡き姉にその訳を聞き、「赤い靴」通いが始まりました。
 最近は仕事でご一緒する歌手の方々やタレントさんに時間の許す限り、気高く・美しい高知城を、お見せしたくてお連れしております。伺えば、自費でおやりになっているとか。ご苦労も多いかと存じますが高知城への灯を絶やす事無く、いつまでも続けて頂きたいと存じます。



下記のお写真は、株式会社 ドデカゴン 柴田恵子社長様の最近のお写真です。

柴田 恵子様 東京にて

柴田 恵子様 シンガポールにて柴田 恵子様 ソウルにて

柴田 恵子様 ソウルにて

ビジネスで、シンガポール・ソウルにて


韓国の、スーパースター“パク・ヨンハ”さんのディナーショーを、日本(東京・大阪)で初めてプロデュースされ、大成功させ話題になりました張本人。パク・ヨンハさんとは、ファミリーのお付き合いをなさっています。
柴田恵子社長様は、今、国際的に大活躍なさっています。
これからも、高知にいろいろな文化・芸能・スポーツをご紹介していただき、県民の皆様を楽しませてくださいね。



鹿取様、柴田様と一緒に撮影元巨人軍の鹿取義隆様と、ご一緒に赤い靴ロイヤルサルートに、ご来店いただきました、柴田恵子社長様。
鹿取義隆様は、高知ご出身で、この日は、WBC世界一の後、故郷高知にて、講演され新聞・テレビ・ラジオ等で話題になりました。
柴田恵子社長様、鹿取義隆様の、故郷高知を想うお気持ちに感謝いたします。ありがとうございました。

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私と高知城         井林 清一様
 上の題名にて感想を、との事。簡単乍ら文章にて表す事にがて乍ら少し思った事文にしてみました。能楽囃子太鼓方として当地に参りましたのは今から約二十年前になり、毎年五月の大会終了後は、ロイヤルサルートで打上パーティーが有り、何年か前TVにて有名になりました高知城に向けサーチライト点灯された美人マダムとも懇意になりましたこと、高知城と私の多大なかかわりになりました。
 舞台出演の前日のリハーサルと当日本番の出演有り、あくる日早く他地へ移動の為高知へは何度となく来ておりますが未だ城内拝見はいたしておりません。いずれ機会をこしらえゆっくりと訪れた節に、改めて高知城に関する感想を書きたく思っています。

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私と高知城          喜多流能楽師 粟谷 充雄様
 何年か前に観世さんと一緒に、高知城で薪能が開催された時にちょうど僕の従弟の浩之君とその日の午前中の便で高知空港に入りタクシーで市内に行き宿泊先の阪急ホテルで少し早いが昼食をとり、薪能は夕方頃なので時間つぶしに高知城まで歩いて行き高知城の天守閣まで上がった。
 自分が思ったよりも高知城は小さく、誠に失礼ではあるが期待はずれでした。当時、雨がパラツイててちょうど雨が止んだ時に行ったので蒸し暑くて半袖のシャツが熱気で汗だくになったのを覚えています。そして二人でヘトヘトになりながら近くのアイスクリン屋に行って、アイスキャンディーを食べながら高知城を後にしました。
 展示してあるのが少なく、ちょっと物足りないかなあ〜とそんな感じがした。

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私と高知城  喜多流能楽師  粟谷 明生様
P-22.jpg 私がはじめて高知を訪れたのは子方(能の子役のこと)出演のためで八歳の時でした。かわいい子には旅をさせろが両親の考えだったのか、能関連の衣類と下着だけを入れたリュックサックを背負わされ「高知空港に着いたら・・さんが迎えにくるから一人で行けるね」の一言で、私は飛行機に乗せられました。心細くも飛行機の窓から見える綺麗な雲海の景色に目を奪われ、世話をしてくれる綺麗なスチュワーデスのお姉さまも横目でチラリと見ながら高知へ向かったのです。これが私の飛行機の初搭乗、その行く先が高知でした。この時のことはかなり特別な状況だっただけに、今でも忘れららない思い出として脳裏に焼き付いています。
 二度目に高知に行ったのは十三歳の時で、これは能とは関係なくプライベートな旅行でした。ちょうど夏休みで学校の社会科のレポート宿題があり、私は「私の土佐日記」と題して竜河洞、足摺岬、高知城と廻った旅日記のようなレポートを書きました。母が汗をかきながら必死になって高知城の築城の経緯や特徴などを筆記してくれ、私はただカメラのシャッターを押すだけというていたらしく、誰のための宿題やらと今は自己反省しています。学校に提出後、優秀と採点されましたが、優秀なのは母だということをもしかすると先生は解っていらしたかもしれません。
 この時、山門と天守閣を背景に記念撮影し、城の内部に初めて入りました。天守閣まで階段を息も切らさずさっさと上って見た市内の展望の良さ。日本に数ある城の中でも山門と天守閣が同時に撮影出来るのは高知城だけと聞いています。江戸時代に入場された山内家が喜多流愛好家であったことが喜多流のこの地での繁栄をもたらし、私がこの地を訪ねられる要因でもあるのです。
 四年前、私は十歳の息子を連れて能公演のために高知に伺いました。日頃接することが少ない息子との時間が持てたことが嬉しく、息子とを高知城を拝観し、昔、自分が撮られたところで同じように記念撮影をしました。城に上がる時に息切れを感じ、よくこんな階段が上がれたものだと、今の自分の状態に情けない気分になりました。確実に時は流れ、その早さを痛いほどに感じました。高知城は私と母、そして息子とをまるで見えない糸で繋ぐように思い出を引き出してくれる、そんな演出をしてくれる貴重な場所なのです。
 三年前、高知城で薪能があり、お城の下で喜多流の能『羽衣』がありました。いつの日か私がこの思い出の場所「高知城」で能を勤める機会があればよいなと夢は膨らんでいます。

栗谷 明生栗谷 明生

1955〜
菊生 長男
重要無形文化財総合指定保持者
東京在住
喜多方流シテ方 昭和30年生
喜多方流能楽師として意欲的に活動している

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私と高知城  国則 秀機様  −2回目−
 時を経て、次男坊はあの当時を髣髴させる年頃の4児の父となっている。お城は我が家の思い出のアルバムにしまいこまれていた。
 私は、昨年4月に高知城勤務を命ぜられた。思い出深い、高知城を職場にすることが出来た。ここで新たな思い出ができた。
 かつて中日新聞「城と人と 高知城 はちきん女 情熱の光」で紹介されたことのある、ピアノバー赤い靴のオーナー、田中滋子様の高知城ライトアップへの感謝状贈呈式に列席させていただく機会を得た。感謝状の贈呈は、高知公園の石垣工事が行われることにより今後数年間は三ノ丸での桜見物ができなくなることから、夜桜見物を呼びかけて閉館時間を延長していた懐徳館でおこなわれた。田中様には、天守で赤い靴から射す光とも対面していただいた。天守からの夜桜見物にこられていた入館者たちも、日頃は頭上を通過する光線が、この時ばかりは赤い靴から目線で射してくる光の中に身を置き、嬉々としていた。
 私は、感謝状の贈呈に出席していた橋本知事夫妻にお願いして天守閣の前庭で記念撮影を撮ってもらった。この日、3月20日は、奇しくも私の60歳の誕生日であった。はちきん女田中様のおかげで、高知城にまつわる思い出を胸に、34年間の県庁生活に終止符を打つことが出来た。
 最後になったが、よさこい大会の全国大会が昨年に引き続き高知城で開催される。再来年のNHK大河ドラマに初代土佐藩主山内一豊の妻千代を主人公にした巧妙が辻・山内一豊の妻が決まった。はちきん女がかつて「シンボルが闇の中で埋もれてさびしがっちょる。私がライトアップしちゃるき。」と始められた一条の光に照らし出された高知城は、いまや全国から注目を浴びる存在になってきた。高知の夜空に、はちきん女の一条の光がいつまでも光り輝くことを祈念しております。

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私と高知城  国則 秀機様  −1回目−
 ある穏やかな日曜日、家族で高知公園を目指した。長男、次男は幼稚園に通う腕白盛り、長女はまだ生まれていなかった。妻は和服を、子供はあたかも双子と見紛う揃いの服装であった。土佐市からお城下を目指すにはそれなりの服装を整えたものだ。

 当時まだ高知公園にあった動物園で時間をつぶし、今を盛りと咲き誇る梅の段で子どもたちと戯れたのち、廊下門下で記念写真を撮ることとした。

 廊下門前の紅白のしだれ梅の前の坂を少し下ったところで、撮影の位置を決めた。カメラを固定し、露出、シャッター速度、ピントを合わせて準備は完了。セルフタイマーを押し、足早にファインダーから離れ、妻の横でポーズをとった。シャッター音のみが耳に入ってくる。一瞬の静寂。そのとき、突然に次男坊は脱兎のごとくあさっての方角に逃げていったではないか。いったい何事がおきたのか、事態の掌握ができなかったこは言うまでもない。

 後日、写真ができてきた。ポーズを決めた親子3人を尻目に、スタートダッシュ時の一瞬の動きを止めた格好の次男坊は慌てふためいていて、表情はこわばり、硬直している。情景の予想はつくと思う。なんとも滑稽な写真が撮れたものである。

 静寂の中に響くタイマー音に驚いてのことだった由。わが家族にとって貴重な、思い出深い写真の一枚となった。
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私と高知城 岩永 洋一郎様
 私の青春時代、「青春の城下町」という歌が流行っていた。「登れば見える〜君の家。灯が窓にともるまで〜」という感じ。あれは八十八夜も近い頃、女子大との合コンの後、薄暗い高知城へ。極普通のおんなのこであった。登口には板垣さんが立っていた。「君の家は何処?」「五台山の向こう側です。」「五台山がじゃまで見えんねー。ようし!俺が五台山を削ってここから見える様にしてやるよ。」彼女は不思議そうに「えっ?」(変わった男と認識した感じであった。)

本丸へは入れなかったので二の丸で彼女の手を握ったのを思い出す。

やぶ蚊にも数カ所くわれていた。それから登った道を降りた。板垣さんも右手で五台山を指していた。「ようし!削るぞ。」それから数回彼女と逢ったが・・・。そのまま今に至る。あれから三十年。高知城へ。板垣さんはじっと五台山を指していた。本丸へ。「ああ!あの時五台山を削らんでよかったな。」「彼女はどうして居るろか?」「元気なら五十二、三。健康優良児タイプだったので、きっとおばーちゃんに成っているだろう。」新緑の五台山は輝いていた。

 サーチライトに浮かんだ高知城を遠くに、水割りを。あの時を思い出す。「よかった。よかった。」高知城よ永遠に。五台山よ永遠に。
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私と高知城 I・A様
P-15.jpg
〜 妹とともに 〜

 私は定年をまじかに控えたサラリーマン社長です。

 最近、週に1〜2度アネックスビル最上階にある「赤い靴・ロイヤルサルート」に足をはこんでいます。店内には私の座る指定席?があり、そこからは、ライトアップされた南海随一の名城、高知城を遠望することができ、心が癒されるひと時をすごしています。
 高知城をみるたびに、今から47年前、私がまだ小学6年生だった頃・・・汽車で4時間も揺られ修学旅行に来たことを思い出します。

 龍河洞からはりまや橋、桂浜と観光し、夜は旅館で友達とマクラ投げをして遊んだこと。懐かしく、楽しい思い出です。何歳になろうとも、良い思い出は心に残し、良い出会いを求め、残りの人生を大切に歩んでいこうと思うこの頃です。
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私と高知城  元高知電報電話局長 初代NTT高知支店長 杉本 价寛様
 もう十数年前のことになりますが、当時、私の勤務場所が高知城のすぐ前という大変恵まれた環境にあったこともあり、特に桜の花の美しい時期になると、昼休みに高知城の天守閣に登り、城下を見下ろしては殿様気分を味わったものです。

 後に、NTTの社長になられた児島 仁氏がまだ副社長当時、所要で来高されたのを機に高知城をご案内しようということになり、数人でお供したことがあります。城内をご案内している時私に「杉本君、今では、高知城は日本で最も古いお城なんだよ」と言われ、私は十分状況のわからないままに、「はあ、そうですか」と生返事をしたことを思い出します。副社長をお送りした後早速資料で調べてみますと、「本丸の建築物が何れも江戸時代のまま残されているのは、全国でも高知城だけ」ということが分かり、「何でもよくご存知な方だな」と感心させられたことがあります。

 その頃からでしょうか。夜になると、高知市内のビルの屋上から高知城をライトアップしており、お店の中のカウンターからリモコン一つで、視界からお城を消したり浮かび上がらせたりすることが出来るということで評判になっているお店がありました。申し上げるまでもなく、「赤い靴」です。

 随分豪気な方が経営しておられるお店だなあと感心させられながら、何度か飲みに行くことになりました。いくと何時も、当時高知ライオンズクラブでご一緒だった今は亡き大坪先生が、お城に向かってカウンターの一隅で、何時もひとりでお酒を飲んでおられました。私も当時は、「号腕な大坪先生だからな」「お店のPRだろうな」と思ってましたが、十数年たって、今考えてみますと、永い間に高知市の観光事業にも大きく貢献してこられたことになると思い、当時は、奇抜なアイデアと思われたことに、改めて、敬意を表する次第です。

 大坪先生のご冥福を心からお祈り致します。
 合掌。
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私と高知城  有限会社 伸網商会 代表取締役  田中 智洋 様
美少年の頃(室戸)
【美少年のころ(室戸)】

 この度の栄えあるご功績に対しまして感謝状贈呈されました事、こころよりお慶び申し上げますとともに深く敬意を表します。
 さて、私と高知城ということですが、恥ずかしながら学生時代以来あまり訪れる事もなく、貴殿のお店からすばらしい眺望を堪能させて戴いてたというぐらいが昨今までの高知城とのふれあいでした。しかし最近の私は随分高知城に対する認識を異にしております。


 先日頂戴致しました「名城をゆく 高知城」を拝読させて戴いたり、私の所属するクラブの月一度の早朝清掃(三の丸でのお花見で皆ご迷惑をお掛けしている罪滅ぼしという訳ではないですが・・・・笑)で身近にすばらしさを感じていたりで、本当に歴史的にも、造りにも感銘させられる名城だと痛感している今日この頃です。
 威風堂々とした名城を、又高知県にこんなすばらしい財産が有ることを誇りに思い、もっともっと身近に感じていきたいと思っています。改めて貴殿の長年のご努力に敬意を表します。私も山内容堂の如く「政治経済、学問、酒と女」とまではいきませんが、頑張ります。又お邪魔します。

妹とともに
【妹とともに】

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私と高知城   T・H 様
 高知城には幼少の頃から今までそれぞれの時期にいろいろな思い出がある。小学生の頃には裏にあった動物園のよく行った。象の南海子を覚えている。お花見の思い出、子供ながらに騒がしかった高知花壇も覚えている。中学生の頃には、柔道部に入りあの中途半端な階段を何回も走らされたり、度胸試しだといって国旗掲揚台の上で歌を歌わされたり、あまり良い思い出はない。

 ただ隣に致同館という武道場があり、柔道の試合で優勝をしたことがある。板垣退助像の下でお弁当を食べたことも思い出される。色気が出てきた高校時代には一番のデートの散策コースとなり人気のないすべり山の方へ行って誰もいないことを確認して彼女によくしがみついたものだった。そう初キッスもすべり山だった。悪友達と夜アベックを何回か覗きにいったこともあるが、パトカーと鉢合わせをして飛び逃げ、以来覗きはやめた。

 以来三〇年の年月が過ぎ、今は早く目がさめた時には、そんな多感なころを思い出しながら健康ウォークをしてお城を眺めている。
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私と高知城   山崎 啓輔様
P-04.jpg 「高知城」何かと問われて、思い出すのは40数年前に10年振りに観た高知城です。
 それは今でも鮮明に覚えています。春も半ばの頃小雨にけむる時でした。三の丸から南に向かって大きな白い塀に沿って凛としてそそり立つ天守閣。しばらく圧倒され、ただ呆然と眺めた事でした。
 何とバランスの取れた美しさだろう・・・・高知城を眺めている内に小学校の頃、毎日ここに来てチャンバラをやったり、石垣に登って大人に怒られた事、東側に動物園があり、象がいて南海子と命名した当時を懐かしく想い浮かべていました。
 此の度、滋子マダムがその高知城を照らし続けたご褒美に知事表彰の栄に、又、誰にも勝る、高知城を愛でる心意気に敬意と賞賛をおくります。
 私にとって、普段当たり前の様に気にもしていなかった高知城を改めて胸中、再認識させられました。
 本当にありがとう  謝謝。

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私と高知城 日本城郭文化学会 代表  佐藤 真樹様
P-06.jpg 土佐の主役は高知城である。その存在感たるや、圧倒的ですらあり、今時、高知市規模の都市において、いかなる建築物をも眼下に見下ろせる天守からの眺望を誇っている城は存在しないだろう。加えて、天守最上階の開放感と、そこに吹く風の爽快感は何度、訪れても心に新鮮な感動を与えてくれる。
 実は、この天守、享保12(一七二七)年の大火で焼け落ちているそうだが、それから、22年後の寛延2(一七四九)年に再建されたのが素晴らしい。それも慶長8(一六〇三)年の築城当時も姿そのままの「復古式廻緑望桜天守」として再建されたお陰で、我々は江戸時代のお城を体験できるのである。また、さらにありがたいことに藩政期当時の本丸御殿が日本で唯一残っており、殿様の日常生活の場を垣間見ることも出来る。そうした高知城の魅力は、廊下門を経て辿り着く独立空間としての本丸や、二の丸・三の丸の広大なスケール、杉の段の老杉や野面積みの穴太流石垣の砂に至るまで、尽きることなく、その素晴らしさ、その美しさはまさに国宝級である。それゆえに、追手門前に遣わされた昭和9年制定の国宝高知城の石碑の存在は、現代の「重要文化財」としての評価を超えて、遙かに相応しいステイタスだと思う。
 ところが、高知城の魅力は、こうした昼間の城内散策だけではない、むしろ、全国に現存する12城の中でも、ここでしか、味わえない城の楽しみ方がある。それは、帯屋町のビルの最上階にあるクラブ「赤い靴」を訪れてみればわかる。
 お客は、ハチキンを絵に描いたような美人ママからリモコンを手渡されると、ビルの屋上にあるサーチライトを操作して、ライトアップされた天守の姿を自在に消したり、現したりすることが出来るのである。こんな豪快にして愉快な城の楽しみ方が他の城であろうか?このラウンジから闇夜に浮かぶ白亜の天守を眺めながら飲む酒は格別だ。これぞ、私にとって、最高の高知城の味わい方なのである。
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私と高知城  日本城郭文化学会  三原 寿太郎様
P-08-1.jpg 全国そして海外のお城を訪ね歩いて四十年、国内では五百を超える城を巡ってきました、それらは『城鑑賞の旅・二人で城ある記』と題したホームページで報告しておりますのでご覧いただければ幸いですが、その間にお城を仲立ちとして数々の出会いがありました。
 【出会い その壱】
 城巡りのきっかけは学生時代の四国一周旅行でした。突然車窓から飛び込んできた丸亀城の高い石垣に途中下車して訪れたこと、そして高知城で追手門越しに仰ぎ見た天守の雄姿でした、この二城は私の永いお城遍歴の母であり父であるわけです。
 【出会い その弐】
 結婚後は夫婦で城巡りを続けておりますが子供が成人したあるとき原点の城を二人で訪れることにしました、きっかけは『天守をライトアップしているお店がある』というTV東京の番組でした、光線を頼りにしてようやくたどり着いたお店で、初対面ながら寒空に屋上まで案内いただいた赤い靴の田中オーナーとの素晴らしい出会い。
 【出会いはこれからも】
 お城の写真を撮り続けて数万枚のなかで高知城と初の出会いの時の写真も技術は未熟ですが好きな一枚、どこからも絵になる雄々しい姿は写真好きにも頼もしいお城。今度は南予から土佐に入るコースを立案中ですが、何回でも訪れたい高知城との近々の出会いを楽しみにしております。
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 【追伸 (『二人で城ある記』同行の妻より)】
 「赤い靴」の窓から暗い中に一条の光が天守を指し示している姿を拝見し、まさに千代女の故事どおりで今も昔も女性の支えでこその天下の名城「高知城」と感慨に浸ったのを思い出します、何度でも訪れたいお城、大河ドラマも楽しみです。

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私と高知城 松村 雄治様
P-09-2.jpg 高知城はどの季節でも風情がありますが、私のお気に入りは、中秋の名月と高知城です。ライトアップされた高知城の天守閣近くに、名月が近づいたアングルは感動的です。幾筋かの雲がたなびいていれば絶景!。
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 私は知人に誘われて杯を傾けて眺めていましたが、周りには人も殆どいなく、日本人の最高のシチュエーションを堪能致しました。
 桜の下で騒ぐ花見もいいでしょうが、秋の夜長をこの様に過ごせる高知城は、この上なく純日本的であり、大人の風流を味わえるスポットです。
 これからは、この風流に和の静かな企画がなされることを期待したいものです。2006-01-21 SatP-09-2.jpg 高知城はどの季節でも風情がありますが、私のお気に入りは、中秋の名月と高知城です。ライトアップされた高知城の天守閣近くに、名月が近づいたアングルは感動的です。幾筋かの雲がたなびいていれば絶景!。P-09-1.jpg 私は知人に誘われて杯を傾けて眺めていましたが、周りには人も殆どいなく、日本人の最高のシチュエーションを堪能致しました。 桜の下で騒ぐ花見もいいでしょうが、秋の夜長をこの様に過ごせる高知城は、この上なく純日本的であり、大人の風流を味わえるスポットです。 これからは、この風流に和の静かな企画がなされることを期待したいものです。
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