私がはじめて高知を訪れたのは子方(能の子役のこと)出演のためで八歳の時でした。かわいい子には旅をさせろが両親の考えだったのか、能関連の衣類と下着だけを入れたリュックサックを背負わされ「高知空港に着いたら・・さんが迎えにくるから一人で行けるね」の一言で、私は飛行機に乗せられました。心細くも飛行機の窓から見える綺麗な雲海の景色に目を奪われ、世話をしてくれる綺麗なスチュワーデスのお姉さまも横目でチラリと見ながら高知へ向かったのです。これが私の飛行機の初搭乗、その行く先が高知でした。この時のことはかなり特別な状況だっただけに、今でも忘れららない思い出として脳裏に焼き付いています。 二度目に高知に行ったのは十三歳の時で、これは能とは関係なくプライベートな旅行でした。ちょうど夏休みで学校の社会科のレポート宿題があり、私は「私の土佐日記」と題して竜河洞、足摺岬、高知城と廻った旅日記のようなレポートを書きました。母が汗をかきながら必死になって高知城の築城の経緯や特徴などを筆記してくれ、私はただカメラのシャッターを押すだけというていたらしく、誰のための宿題やらと今は自己反省しています。学校に提出後、優秀と採点されましたが、優秀なのは母だということをもしかすると先生は解っていらしたかもしれません。 この時、山門と天守閣を背景に記念撮影し、城の内部に初めて入りました。天守閣まで階段を息も切らさずさっさと上って見た市内の展望の良さ。日本に数ある城の中でも山門と天守閣が同時に撮影出来るのは高知城だけと聞いています。江戸時代に入場された山内家が喜多流愛好家であったことが喜多流のこの地での繁栄をもたらし、私がこの地を訪ねられる要因でもあるのです。 四年前、私は十歳の息子を連れて能公演のために高知に伺いました。日頃接することが少ない息子との時間が持てたことが嬉しく、息子とを高知城を拝観し、昔、自分が撮られたところで同じように記念撮影をしました。城に上がる時に息切れを感じ、よくこんな階段が上がれたものだと、今の自分の状態に情けない気分になりました。確実に時は流れ、その早さを痛いほどに感じました。高知城は私と母、そして息子とをまるで見えない糸で繋ぐように思い出を引き出してくれる、そんな演出をしてくれる貴重な場所なのです。 三年前、高知城で薪能があり、お城の下で喜多流の能『羽衣』がありました。いつの日か私がこの思い出の場所「高知城」で能を勤める機会があればよいなと夢は膨らんでいます。 栗谷 明生 1955〜 菊生 長男 重要無形文化財総合指定保持者 東京在住 喜多方流シテ方 昭和30年生 喜多方流能楽師として意欲的に活動している
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